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玉川麻衣の作品、日記、展示等のお知らせです。  新しい作品はカテゴリー「ペン画1」に入っております。 個展 7月:八犬堂ギャラリー(京橋) 10月:ストライプハウスギャラリー(六本木)
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面白く感じた部分をそのまま抜き出し。


開高健「輝ける闇」より。
(ベトナム戦争についての長編小説)
アメリカ人の大尉とのレストランでの会話。

「もし書くとすれば匂いですね。いろいろな物のまわりにある匂いを書きたい。匂いのなかに本質があるんですから」
「…けれど、私の考えでは、文学は匂いよりも使命を書くべきものではないですか。もちろんあなたの自由ですけど、私なら使命を書く。匂いは消えても使命は消えませんからね。私ならそうする」
「使命は消えませんか?」
「消えませんとも」
「使命は時間がたつと解釈が変わってしまう。だけど匂いは変わりませんよ。汗の匂いは汗の匂いだし、パパイヤの匂いはパパイヤの匂いだ。あれはあまり匂いませんけどね。匂いは消えないし、変わらない。そういう匂いがある。消えないような匂いを書きたいんです。使命も匂いをたてますからね」
壁にもたれ、ハイビスカスの花のかげでタバコを噛みながら、私は、小説は形容詞から朽ちる、生物の死体が眼やはらわたから、もっとも美味な部分から腐りはじめるように、と考えていた。ひょっとしたら大尉が正しいのかもしれない。使命が骨なら、それはさいごまで残り、すべてが流失してから露出される。しかし、匂いが失せてからあらわれる骨とは何だろう。


町田康「猫にかまけて」より。
犬猫各々の特徴を挙げる件で、犬を呼んだ場合の描写に笑ってしまった。

「わぎゃっ?呼んだ?ぼくを呼んだ?うふふ。嬉しいな。呼ばれたよ。わんわんわん。と言っている間に、はは、ぼくはもう走ってしまっている」

あはははたしかに。
芦原すなお「青春デンデケデケデケ」では
「わんわんあはあはわんわん」
と表現されていた。
あはははたしかに。

私は犬に見つめられると、「そんなに信頼と期待に満ちた目で見るんじゃない!私はお前が思っているような人間ではないんだ!!」と叫んで走り出したい衝動にかられます。
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新野直吉「田村麻呂と阿弖流為 古代国家と東北」
大槻ケンヂ「オーケンのめくるめく脱力旅の世界」「神菜、頭をよくしてあげよう」
安野光雅・河合隼雄「人が、ついとらわれる心の錯覚」
河合隼雄「猫だましい」「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」
歴史の謎を探る会「落語でわかる 江戸っ子の暮らしと人情」
安野光雅「空想犯」
開高健「夏の闇」
町田康「猫にかまけて」


感想など。
「夏の闇」…
異国の片隅にひっそりと暮らす男性の日常。
冒頭からおよそ8割方、とてもしんどい。
怠惰、倦怠、閉塞…
それらの濃ゆい匂い。皮膚感覚。
しかし突如、「ベトナム戦争」の存在が、鮮やかに圧倒的に、どうにもならない迫力で…立ち上がってくる。
主人公の男性、同居する女性、街が、夜が明けるように目が覚めるように、その印象を変える。そしてラストの一行。
…このような瞬間を体験すると、本が好きでよかったな、と思う。
やー、小説って面白いなぁ。


「猫にかまけて」…
「猫の手帳」に連載されていた、猫にまつわるエッセイ。
町田節、てぇのかしら、独特の文体が気味よく。
飼い猫に当てられた科白に、なるほどなと思いつつ笑ってしまう。
(「あなたいったいなにを考えているの?わたしが腹の上でまどろんでいるのよ。それをあなたがごそごそ動いたりそんなごわごわの服を着てたんじゃ意味ないじゃない。バカじゃないの?あなたいったいなんのために生きてるの?わたしを腹の上に載せるめでしょ?それをごそごそ動いたりするんだったらあなたなんて生きてる意味ないじゃない。まったく呆れ果ててものもいえない。もう馬鹿馬鹿しくてこんな腹には乗ってられない」とか)
しかし読み進むうちに、私は猫を好ましいと思っているけれども、「猫好き」と称することは出来ないな、と感じた。
「猫好き」には何か私には伺い知れない世界があるように感じる。
なんつぅか、私はそんなに出来ないよ。いろいろと。
(河合隼雄「猫だましい」には、心理療法を行っているとしばしば猫のイメージが、患者の無意識の何かしらかを象徴する形で現れる、とあったけれども…
ここでは別にそれは関係ないのだろうな。思い出しただけ)
(古来から人と猫は密であった、てことかしら。猫は人の精神の懐に入って来やすい位相をしているのかしら)
例えば、ペット、てしばしば、飼い主の精神の一部分…例えばとても柔らかい部分…を引き受けるものなのかしら。

最近読んだ本の中から、面白く感じた部分をそのまま抜き出し。


河合隼雄「猫だましい」より…
(心理療法家の筆者が、猫を人の「たましい」の顕現と捉えて、古今東西の猫を主人公とした作品を基にして人の心の在りようをスケッチする本)

…そもそも近代の医学は、心と体、そして、自と他を明確に区別することによって成立したものである。人の体を「客観的な対象」として(あっさり言えば物体として)研究することによって得た知識と、それに関連する技術によって、治療を行うのである。それは端的に言えば、関係を切断することによって成立してきた学問であり技術である。
ここで少し理屈っぽいことを考えてみよう。一メートルの物差しを二つに切ったとする。そのとき、片方の端が五十センチから一メートルまでとすると、片方の方は0からいくらまでになるのだろう。不思議なことにここには名前がつけられない。こちらも五十センチとすると、もとに戻すと五十センチの点が二つあっておかしい。そこで四十九・九センチにすると、0・一センチ抜け落ちてしまう。このことは数学では連続体問題と呼ばれていることで、粒子をひっつけて全体をつくるのではなく、最初から全体としてある「連続体」というのは、なかなか明確に割り切って考えられないのである。
一本の線分を二つに切断するとき、それぞれの端に名前をつけて明確にすると、必ず抜け落ちる部分がある。このことを、人間存在という連続体に当てはめてみよう。それを「心」と「体」という明確な部分に分けた途端に、それは全体性を失ってしまい、その二つをくっつけてみても元にはかえらない。人間という全体存在を心と体に区分した途端に失われるもの、それを「たましい」と考えてみてはどうであろう。それは連続体の本質である。

(面白いです。手元にあるのは新潮文庫版なのだけど、大島弓子の感想漫画がついてます)



大槻ケンヂ「神菜、頭をよくしてあげよう」より…
(エッセイ。筆者自身がパニック障害を患い、克服しようと神経症関係の書籍を読みあさり…)

…共通しているのは、病をきっかけとして自らの人生を振り返り、ストレスをためない、生きることを楽しむライフスタイルへ改善していくということである。
発作の危機に対しては、計算とか整理とか、単純作業を始めると回避が可能。もし仮に起こしてしまったとしても、別に、発作によって狂うことも死ぬこともないのだから、たとえ最低の状態であっても、その中で今できる最小限のことをなせば、人間としてOKなのである。そうやって楽観的に暮らしていくと、やがて薄紙を剥ぐように、少しずつ、病とうまい具合に共生している自分に気付くようになる。

(元気出ちった。オーケン…思春期を思い出して甘酸っぱい気持ちになるですよ。マジックマッシュルーム、怖ぇな)

太宰治「人間失格」
遠藤周作「白い人 黄色い人」
北島行徳「バケツ」
村上春樹・稲越巧一「使い道のない風景」
北原次郎「修羅の夏」
谷崎潤一郎「陰翳礼讚」「吉野葛」
香山リカ「あなたのココロはダイジョーブ!」
山折哲雄監修「別冊太陽 日本の神」
佐々木徳夫「馬方と山姥~陸前・岩代の昔ばなし~」
服部邦夫「昔話の変容」「鬼の風土記」
清水谷孝尚「巡礼と御詠歌」



感想とか。
「人間失格」…
高校の頃読んで、「なんでこんな当たり前のことをネチネチと…」と不愉快な気持ちになってそれっきりだったのだけど(相当イヤな子供だったんだろな私も)、最近知り合いの方が「あれは爆笑小説だ」と仰ていたので気になって再読。
爆笑しました。
最後の京橋のバアのマダムのあの台詞。
あはははおもしろ。

「白い人 黄色い人」…
ナチス統治下、戦時中の日本、それぞれに於ける神の所在、キリスト教、西洋と日本…てテーマでよいのかしら。
ピンと来んかった。
西洋礼賛主義・西洋コンプレックスが感覚的に理解出来ず。
(このあと原田宗典のエッセイを読んで、敗戦が人々与えたショック、てものを認識してそれなのかしら、とか)

「バケツ」…
障害者プロレス団体ドッグ・レッグスを主宰する作者による小説。
軽い知的障害を持つ少年バケツと、マッチョだが気の小さい青年の共同生活。
号泣しちまいました。
あくまでもカラッと、物語として面白く、カタルシスもあるんだけど…
実際に目の当たりにして向き合い取り組んでいてこそ見えてくるんだろうな、と感じる描写がたくさん。
愛に理由はないのかな、とか(あって然るべき、と思う場所になかったり、意外な場所に存在したり)、愛ってやっぱり実践だよな、強くならんとな!とか。
ドッグ・レッグスを彷彿とさせる演劇集団「犬の後ろ足」を主宰する女性(ヒロイン?)が美しい。

「陰翳礼讚」…
翳りや隈のなかにこそ日本の美の本質がある、とするエッセイ。
あぁこの人はとことんエロな人なんだな、と。
昔の日本の夜には電灯はないわけで、漆器や螺鈿や和食は行灯の明かりの元でこそ美しい、とか。
金糸銀糸で織られた衣に赤黒く焼けた顔…松明の明かりの元の戦国武将は荘厳な男性美であったろう、とか。
昔の女性は、仄暗い家の奥に顔と手先のみが見えていて、あとはただ手触りのみの存在であった、とか。
「吉野葛」…
永遠の女性。母狐を恋う人の子。憧憬のなかにこそ在るもの。憧れという、位相。


観音信仰。昔話。神仏・鬼・化物の所在。…
ただ今そのへんがマイブーム。
しばらく気力が萎えていて、図書館で借りるも読了出来ずに返却してしまうことが多くて。
また改めて借りてみるかな。
「花石物語」「おれたちと大砲」「四十一番目の少年」井上ひさし
「楼蘭」「あすなろ物語・緑の仲間」井上靖
「東京シック・ブルース」芦原すなお
「宮澤賢治 童話のオイディプス」高山秀三
「相談しよう そうしよう」原田宗典
「何でもない話」「海と毒薬」遠藤周作


感想等。
井上ひさし、面白いなぁ。
視点の温かさとシビアさ。
以前読んだ「手鎖心中」もとてもよかった。「イーハトーボの劇列車」は読み返す度泣いてしまう。

「楼蘭」
歴史もの短篇集。
表題作は、紀元前、タクラマカン砂漠に僅か50年ほどだけ存在した小さなオアシス国家の物語。
大国の狭間で翻弄され都を追われ、楼蘭人にとって楼蘭とは、「いつか帰るべき美しい場所」、また誇りの拠り所となってゆく。
あと「補陀落渡海記」が面白かった。
観音菩薩のおわす浄土を目指し独り小舟で漕ぎ出す補陀落渡海。(即身成仏のようなものか)
慣習と世間の目からそれを余儀なくされてしまった僧の、静かな極限状態。
この作者の作品は、現代もの(つぅても戦後だけど)より歴史ものの方が好きだなぁ。

「東京シック・ブルース」
四国から上京した主人公が学生運動たけなわの大学に入学し…常に戸惑っているような「いいヤツ」な主人公の前に様々な人物が現れ、演説(?)し、また去ってゆく。(「魔の山」…?)
主人公の父親と生物学の先生のそれが印象に残っている。
「…全体は自然なんだ。だから、いつも自然に立ち返って、自分をかえりみるようにせねばならない。それでも、時に判断に窮することもあるだろう。そのときは、内と外の自然の声が聞こえてくるまで、保留するのだよ。若い者にはそういうのは煮え切らない態度と映るかもしれんが、そうではない。保留こそ、自分が自分の主人であるための、人間の権利なのだよ」
「…自然の営みを素晴らしいなあ、と思える能力は、生き物の中で人間がもっども優れているかもしれない。…いいかい、みなさん、どうか自分が一個の生き物だということ、そして、この世界の成り立ちは、決してデタラメなんぞじゃねえ、ということを忘れないでね」
プロフィール
HN:
玉川麻衣
年齢:
46
性別:
女性
誕生日:
1977/05/08
職業:
絵描き
趣味:
酒、読書
自己紹介:
ペン画を制作しています。 詳しくはカテゴリー「プロフィール」よりご覧下さい。

連絡先→tamagawa10@hotmail.com
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