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玉川麻衣の作品、日記、展示等のお知らせです。  新しい作品はカテゴリー「ペン画1」に入っております。 個展 7月:八犬堂ギャラリー(京橋) 10月:ストライプハウスギャラリー(六本木)
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テレビでフィギュアスケートの浅田真央選手の演技を観て、涙ぐんでしまった。


すんげぇなぁ。
「セロひきのゴーシュ」の、猫がぱちぱち火花を出して風車のように走り回る、てくだりを思い出した。
火花出てたよ!
すんげぇなぁぁ。
素晴らしい作品に出会えると、どうにもこうにも嬉しくて堪らず、元気になる。


ここ数日、神経症の揺り戻しが来てしまい往生していたのだが…
(神経痛で息が詰まって眠れなかったり、頭の中で「お前のような役立たずはさっさと死ね」的な声が延々聞こえたりすると、さすがに時折弱気になってしまい)
(私に自殺願望は断じてない。死を間近に感じたこともあるし、そのときの体の生きようとする力のもの凄さもなにより自分は心底生きたいと願っていることも知っているのだけど)
このようなとき、素晴らしい作品や自然など、「本当に美しい・格好いいもの」=「本物」は、大きな力をくれるものだ。
感動てぇのは生命力だな。


他に、最近感動したもの。
種田山頭火。
うまいこと言えないから抜き出してみる。

分け入っても分け入っても青い山

こんなにうまい水があふれている

すべつてころんで山がひつそり

いつもつながれてほえるほかない犬です

何を求める風の中ゆく

蜘蛛は網張る私は私を肯定する

なんぼう考へてもおんなじことの落ち葉ふみあるく

風の中おのれを責めつつ歩く

ぬいてもぬいても草の執着をぬく

何が何やらみんな咲いてゐる

空へ若竹のなやみなし

もりもり盛り上がる雲へあゆむ (辞世の句)

…格好えぇなぁ…
(や、こんなんじゃ足りない、どれもこれもすんげぇくる!)
なんつぅか、こんな作品に出会えてよかったと、心底嬉しくて転げまわりたくなった。
夏になったら夏草を描こう。


あと、一番しんどかったときに、しりあがり寿「コイソモレ先生」を読んで胸が暖かくなってしまった。
(圧倒的な無意味の連続で、なんだか悩む必要なんてどこにもない、と思えてきて)

それもまたよし。

えぇ言葉だなぁ…



この世には、素晴らしいもの素敵なもの美しいものがたくさんあるわけで、そのひとつひとつに理由・裏付け・道があるわけで…
私は私の道をゆこう。
誠実に歩いてゆけば、その一歩一歩が作品に結び付くはずだ。
私は本物の作品をつくりたい。


描けるはずだ。
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「尼は笑う」麻生佳花
「良寛の四季」荒井魏
「禅入門」(淡交ムック)
「天平の甍」井上靖
「エベレストを越えて」「青春を山に懸けて」植村直己
「冥土のお客」佐藤愛子
「自由訳 十牛図」新井満


特に面白かったもの。感想。
「尼は笑う」
現役尼さんが修業時代を綴ったエッセイ。
剃髪しても若い人は髪の伸びるのが早いのでタオルを投げ付けると張りつく、とか、たまに糸くずが付いている、とか…
笑けた。

「天平の甍」
遣唐使が命懸けで海を渡り、20年掛けて鑑真来朝を実現するまでの、小説。
命を半生を懸けて取り組む仕事が、自分の意志とは関係なくまさに水泡と帰すかも知れない、という、静かな極限状態。
その迫力。
大きなものを見て無口になってしまうよな心持ち。

「エベレストを越えて」
極限に挑み続けて独り山に消えた冒険家の、遺作となった手記。
生と死を見つめるその眼差しの、あまりにも冷静、公平であることに、恐ろしさすら感じた。
生きるって、幸せって、なんだろうとか。
氏にとってそれは「挑戦」のなかにあったのかしらとか。
一度「極限の快」を知ってしまうと求めずにいられなくなるのかしらとか。
ここまでの「孤独な死」があるものなのかとか。
孤独って、死って、…
もう少し、関連書籍を読んでみよう。


仏教と植村直己。ブーム到来中。
しばらく制作時にはコーランのCDを聴いていた。
なんだかこの世に絵と自分しか存在しないよな、禁欲的蜜月つぅかそんな気分になれて心地よく。
(たぶん私にとって絵=神だから)
しかしこのとこ、なんか違う、そろそろ違うものが欲しい、と感じはじめ。
(コーランに本気で向き合い真摯に対話したら、それこそ無限の恩恵を賜るのであろうが…
今はそれを出来ない。半端で我儘な鑑賞者である)
急に無性に「第九」を聴きたい!!と思い…
(今まで音楽にもクラシックにも縁が薄く、知識も経験も殆どないのだが)
(ベートーヴェンって肖像画が強面な人、深夜の音楽室で動いたり…
第九って年末の風物詩、て程度のなんとも稚拙過ぎる認識であったのだが)
ツタヤにて「決定版 ベートーヴェンのすべて」という初心者向けおいしいとこ採りのCDを借りた。


聴いて驚愕。
たまげた。すげぇ!!
なんてすんばらしくすんげぇのだろうか。
知らずに死なんでよかった。
全身の細胞が血液が沸き立つようだ。


第九の合唱部分に、繰り返して聴く度、声を上げて泣き噎せてしまう。
荘厳な演奏が静まり、ベートーヴェン作詞の

ああ、友よ、このような音ではなく、もっと快い喜びに満ちた歌を歌おうではないか

との男声が響き、そして有名な合唱・シラーの詩 


もろびとよ、この全世界を包むくちづけを受けよ


と続く。



当たり前なのだが、桜の枝のうち、陽光を目指さないものはひとつもない。
(枝とは光・水を集めるシステムだから)
冬から早春にかけての枝が、無数の掌が一心に切実に全力で光を求めているように見え、私もどぉにも光が欲しく、描きはじめたのだが…
(しんどいことが重なってわけがわからなくなり、ちくしょう死ぬ気で描いてやる!!と自棄を起こしたのだ)
機が熟すと蕾は一斉に花となって咲き誇る。
木が一年間、また樹齢の分だけ蓄積してきた生命力の、劇的な発露。


ふと、光=生命力=歓喜、でもあるかもな、と思った。
私の内で何兆と明滅し、動脈から毛細血管から静脈から駆け巡っているのは、まさに光で歓喜であるのかも知れない。


(15年前の私であったら、今更またそんなベタを、とか笑うのだろうが…
まぁ、頭ぽんぽんしてやろう。
お子さまにはわからんのだぜ~~♪)


ここのとこ心身の連携が崩れ、思うように動くことが出来ないのだが…
少しずつよくなるだろう。
大丈夫。
私はこんなに生きているし、この世にはこんなに素晴らしく美しいものがたくさんあるのだ。


素晴らしい作品は、知識や経験がなくても、魂に直に触れてくるものだなぁ。
や、本当、問答無用でかっこえぇわぁ。


(そぉいや「時計仕掛けのオレンジ」の主人公はベートーヴェンファンだっな。
セックスと暴力とベートーヴェン、だったかしら?
そぅそぅ第九だ!)
昨日は一日、なにかにつけて、左耳の中でスピーカーから漏れ出すノイズのよな、ぼつぼつつつつ…という音が鳴って閉口した。
水が入っているのかと、綿棒で掃除やら頭振りつつけんけんやらしたのだが、止まず。
低気圧の影響だったのかも知れない。
そぉいや一昨日は、制作の合間に仮眠を摂った際、(集中力が途切れると10分ほど、半眠りの状態になる)エレキギターのよな、きゅんきゅんぎゅいぃ~~~ん!!という耳鳴りがして煩かった。


このぎゅいぃ~~~ん!!は、芦原すなおによると、デンデケデケデケ~~~~!!なのだろう。


同作者の「官能記」に、ベッドの中でオリジナルの「いやらしさを暗示する-あるいはいやらしい情景を喚起する、擬声語」を発する男性が出てきて、その語感に、最初は笑ったものの恐ろしさがこみ上げた。曰く、

ぐじゅーり、ぐじゅーり にゅにい しるるるるーっ … とるぷん、とるぷん いぎ、いぎっ … むまーにゃる、じゅき、じゅき … にゅぐっ、にゅぐにゅぐにゅぐーっ!

うぇぇん怖いよぅキモチワルイよぅ。
擬声語て、なんつぅか、3Dアートのように、一歩手前だか奥だかで像を結ぶ。


鳩嫌いな従姉が、
「あいつらの泣き声はくるっぽーなんて愛らしいもんじゃない、ぼぅぼぅぼぅぼぅだ!!」
と言っていたっけか。
いがらしみきお「ぼのぼの」の、
あわあわ おぶおぶ りっくりっく でべでべ …
(慌てる 持て余す 歩く 走る)
など、本当に名作だと思う。


中原中也の
ゆやーん ゆよーん ゆやゆよん
(空中ブランコ/サーカス)
は、すごすぎると思う。
夢に出てきそう、つぅか熱出して見る夢の手触りそのものな感じで、忘れられない。
そして宮沢賢治!(大好きなんです)

どっどど どどうど どどうど どどう
(風/風の又三郎)
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
(太鼓/原体剣舞連)
クラムボンはかぷかぷわらったよ。
…その上には月光の虹がもかもか集まりました。
(川底より/やまなし) 
…まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。
(どんぐりと山猫)
ねずみとりは、思わず、はりがねをりうりうと鳴らすぐらい、おこってしまいました。
(ツェねずみ)


賢治の擬声語は、甘くくすぐったく、切なく痛く、たまらない。

かぜがくれば
ひとはダイナモになり
      ……白い上着がぶりぶりふるふ……
木はみな青いラムプをつるし
雲は尾をひいてはせちがひ
山はひとつのカメレオンで
藍青やかなしみや
いろいろの色素粒が
そこにせはしく出没する
(たぶん無題)

など、これが「ぶりぶり」でなかったらこんなに悲しく魅力的ではないと思う。


ムーミン谷のニョロニョロは、原作ではハッティフナットというらしい。(迷う・放浪するという意味が含まれるらしい)
私が「お~ニョロニョロは今日もニョロニョロしているなぁ」と思うとき、フィンランドの子供は「ハッティフナットしているなぁ」と思うのだろうか。
ニョロニョロだと、こう、平和に無為に過ごしているよな印象だが…
実際彼らは臆病で無気力で反社会的な人々の反映で、谷では一般に卑しまれている存在であり。
ハッティフナットにはそんな哀しい印象も含まれるのだろうか。


作者の意図するニュアンスは、作者と同じ言語圏文化圏に居ないと伝わらないのだろうか。
や、そんなことはあるまい。
公式発表されるデータとしてのそれらと、魂に於いてのそれらは別ものだ。
本物の作品はイデアに触れるから…
多少の屈折率はあってもきちんとその意図・存在に辿り着くはずだ。
(素晴らしい翻訳者の存在や、素晴らしい挿し絵や、たとえばムーミンシリーズは大人になってまた読み返したい、作者について知りたい、と思うし。そうやって届く)


…ランボオの詩は、その組み合わされた言葉だけで例え地球が滅亡しても成立する。
恐ろしく高度な文明を持つエイリアンなら、その詩を解読して、宇宙的な美しさがあることを知るだろう。
(村上龍 「地獄の季節」集英社文庫解説より)
大賛成。ランボオの詩は言葉の魔法陣だと思う。


(…ぁぁぁ、とっ散らかってきちった。
これはまた別のニュアンスを含むので…)
(語感・口触りとか、イデアとか、ランボオとか…
思うところがたくさんあるのでまた改めて)
(酔っ払いはこれだから)
谷川俊太郎「夜のミッキー・マウス」中の「なんでもおまんこ」という詩に、すんげぇ感動した。


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ



続いて空・風・花・大地への痛いくらいの欲情(?)が綴られる。
やっぱりすんげぇなぁ。
谷川俊太郎ってすんげぇなぁぁ。


今の季節、枝をあらわにした桜並木を見上げつつ歩くときに沸き上がる、衝動。
雲を目指して歩き、惜し気もなくその筆舌に尽くせない造形を崩し造り流れ近付く分だけ遠ざかる、その雲に対峙して湧く涙。
この世のすべてを喰らい咀嚼したい。
一緒に喰らわれ咀嚼され交わりたい。
甘く痛く激しく快い…


そうか。まんこだったのか。


まんこを描いたことが、1度ある。
4年ほど前に、水彩で、山羊と羊と女体と一緒に。
激しく幸せな制作だった。
その絵は渋谷区にお住まいの方に嫁いだ。
元気にしてるかなぁ。
また描くこともあるだろう。


出産を終えたばかりの友人から聞いた話。
出産にあたって切り拡げたそこを麻酔なしで縫われ、「雑巾の気持ちがわかった」と。
この人には一生適わない、と思った。
私はおそらく出産をしないので、「ぼろ雑巾のようになる」ことは度々ありそうだけど「雑巾の気持ちがわかる」ことはないと思うのだ。
ははーー…っ(ひれ伏し)


中学生の頃に出会い度々読み返している、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳)中に、主人公が妹の通う学校内の「オマンコシヨウ」という落書きに憤慨するシーンがあり、ちょっとした疑問と共に印象に残っていたのだが…
(校内に複数あり、「かりに百万年かけて消して歩いたって、世界じゅうの「オマンコシヨウ」は半分だって消せやしない」と絶望するのだ)
村上春樹「そうだ、村上さんに聞いてみよう」を読んで、それが原書では「fuck you」であると知った。
そうかなるほど…
翻訳する際に方言・駄洒落・卑猥語はとても厄介であり、その事情は時代によってどんどん変化するものであるのだと。
なるほどぉ。


しかしまんこ、と聞いて私が一番に思い出すのは、西原理恵子「朝日のあたる家」中のこういちくんの台詞である。
貧困と悲惨で煮染めたような娼婦たちが、明るく開けっ広げに逞しく生きる様に、幼い日の不良少年が呟く。
「まんこってすげえや」


すんげぇなぁぁ。まんこは。


真顔でまんこに思い巡らす早春の宵。
プロフィール
HN:
玉川麻衣
年齢:
46
性別:
女性
誕生日:
1977/05/08
職業:
絵描き
趣味:
酒、読書
自己紹介:
ペン画を制作しています。 詳しくはカテゴリー「プロフィール」よりご覧下さい。

連絡先→tamagawa10@hotmail.com
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