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玉川麻衣の作品、日記、展示等のお知らせです。  新しい作品はカテゴリー「ペン画1」に入っております。 個展 7月:八犬堂ギャラリー(京橋) 10月:ストライプハウスギャラリー(六本木)
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少しずつ、活動をしはじめている。
当分はバイトの日々である。


しかし私はどうしてしまったのだろう。
これだけは自信のあった、気力と集中力がすっかり萎えている。
行動を起こすのが億劫だとか、人に会うのが怖いとか、作品を鑑賞する・本を読む等心を揺らすのが辛いとか。
今までこのようなときは、とにかく体を使え!当たって砕けろ!てな力がどこかから湧き上がり、その通りに行動していたのだけど…
現在はそれをすると、問答無用で動けなくなるため…
途方に暮れている。


また、時折少しのことで動揺し、ひどく感情的になってしまったり、それを押さえ込むと体調が乱れたり。
自分が他人のようだ。
どうしよう。
…とにかく診察・検査を受けて現状を知り、向き合い対処するべきだな。
病院に予約を入れた。


神経関係を患うと、「甘えている」と受け取られる場合があるのだが。
弱っているときにそのような対応・発言を受けると、なかなかの痛手を被ってしまい…
(人に会うのが怖い理由のひとつにそれもある)
(今動揺したらまた昏倒してしまうかも知れない)
当然私の中には甘えもあるだろうが(見付け次第反省して叩き直しを心がけているが)、主な原因は、神経伝達やホルモンバランスなのである。


しかし私自身も今まで、そうした偏見をいくつも持っていたのだろうし、現在も持っているだろう。
知らないものを、怖れたり憶測で決め付けたり見くびったりしてはいけないな。
改めて、反省。自戒。


きっと今、いろいろと思い知り改めるべき局面なのだろう。
塩もみされた野菜のよな私。
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参加してまいりました。
今年で3回目。
御輿を担ぎ、酒を飲み、怒濤に揉まれ、酒を飲み…
がッつりとリフレッシュしてまいりました。



8月2日、八王子祭二日目の朝。
千貫御輿を多賀大社から引き出して御神体を入れ、町々を引き回した後、甲州街道沿いの御仮家におさめる。
正装の神主さんの祝詞を聞き、手を打ち、御神酒をなみなみいただいて…
実に素敵な心持ちとなって、私にとっての祭が始まった。


昼過ぎから山車、続いて町々の御輿。
この日は町内をゆっくりじっくりと巡る。
古くは、自力でお参りすることの出来ない事情のある人々の許へ、神様にお越しいただくという意味もあったらしい。


3日は、昼過ぎから千貫御輿。
その後山車と、町々の御輿。
この日は甲州街道をゆく。
街道沿いに集まった人々の、熱気。
その中心の、一際激しい、熱・力の塊のような千貫御輿。
区画毎に担ぎ手・警備等の受け持ちが決まっていて…
担ぎ手は後方から入って前方に抜けるのを繰り返し…
なんつぅか、素晴らしく激しく、統制の見事なリレーだなと思った。


例えば、伊勢神宮を20年毎に建て直すのは、宮大工の技術を継承する目的もあるそうで…
祭、てのは実に素晴らしいリレー・継承・代謝の装置であるのかも知れない。
実際、千貫御輿を担ぐと、なにか途方も無く大きないきものに飲まれ咀嚼消化されまた吐き出されるような…
なにかのひと区切りが付いたような、簡易式に生まれ変わったような、そんな気持ちになるのだ。



千貫御輿の通ったあとを往き交う山車は、とても幻想的である。
「いーち、にーの、やーーーい」という掛け声のもと、子供たちが中心に綱を引き、山車の上ではお囃子が奏され、獅子・狐・ひょっとこ等が舞い…
御輿によって大きく掃き清められて境界のない空間が出現し、そこを、この世に於いて力の弱いものや異形のものたちが往くような、そんな光景にも見える。
獅子や狐たちは時に神の使いであったり、しばしばこの世とあの世・異界を繋ぐ、境界を跨ぐ、そんな存在であるようにも思える。
子供は、肉体の力は弱いが生命力が強く、まさに境界を往くのにふさわしい存在だろう。


「祭」という大鍋に、すべてのものが放り込まれ、別け隔てなく公平にぐつぐつと煮られて消毒されるのだ。きっと。



今年も、平岡町の方々に暖かく迎えていただき、お世話になった。
(皆さんフレンドリーでありながら踏み込まない、独特の距離感を保つのがとても巧くて、毎年感心する。 これもまた祭の空間・磁場なのだろう)
一年振りにお会いすると、子供たちは初夏の植物のようにぐいっと育ち…
大人の方々は、結婚されたり離婚されたり出産されたり…
一年てぇのは短いようで長いものだなと、たくさんのことが起こり得るものだなと、改めて思う。


帰り掛けにご挨拶すると、御輿を先導する立場の方が、
「ありがとうございました。祭の力は人の力なので、また来年もよろしく」
と、そんなニュアンスの言葉を下さった。
時間は流れ、ものごとは移ろい入れ代わり、それでも核の部分は受け継がれ…
進んでゆくのだな。
大切なのはやはり、力・意志であるのだろう。


私自身、ちょうど今、得るもの失うもの求めるべきもの手放すべきものが、交差する時期のようである。
怖れず進もう。
また一年頑張ろう。



(追記。もうひとつ思ったこと。
祭装束が褌の方もたくさん居て、今年もあらゆる年代の男尻を見る機会があり…
尻はやはり、若いほどに綺麗であることだなぁ)
はじめに釈迦如来がお越しになった。


父方の仏壇が大き過ぎて新居に入らず。
中身を出して、外側は葬儀屋に引き取ってもらう運びとなり。
御本尊まで出されそうになっていたため、私の部屋にいただくことにした。


箪笥の上に置いてみたところ…
持ち物のうちのいくつかが、これは当然ここだよな、てな感じに集まりはじめ。
気付いたら祭壇が出来ていた。


これはこれで、ひとつの磁場だなぁ。
私の意志とは関係なく、自然に出来たよな気がする。
びっくり。
先程母がお参りに来た。


カーテンなくとも祭壇のある部屋。



夕暮れに散歩をする。


近所の柳瀬川へ続く細道を歩くと、野良猫たちの散会場面か、わらわらとすれ違う。
人相(?)の悪い野良が好きだ。
一匹、長毛と短毛が残念な感じにミックスした猫がいて、その目付きがこれまた悪く、大変に愛おしい。


川には真鴨がいた。
こんもり茂る緑に、白粉花、鬼百合、芙蓉…の色。
川沿いから国道に出、狭い歩道を、傍らの茂みから突き出た藪枯らしの蔓にぱしぱし打たれながら歩く。
A.ランボオ「感覚」を思い出した。


青い夏の夕暮れには、小道伝いに、
麦にちくちく刺されながら細い草を踏みにゆくんだ、

(粟津則雄・訳)


そのとき蜩が鳴きはじめ…
油蝉たちがずっと鳴き続けていたことに気付く。
世界は音に溢れていたのだな。
忘れていた。


しばらく祖母の感覚に同調してしまっていたようだ。
人の感情・コンディション・思念は、電気信号のようであると思う。
私はそれを受け取りやすく、
(訓練すればいたこになれるよな気がする)
祖母は強く発信する質だ。
(負の感情をまるごと人に投げ付けてリフレッシュする…)


もう過ぎたことだ。
この揺れやすさを弱さと思っていた頃もあったが、そうではない。
こうであるからこそ、こんな絵を描いているわけだ。


少しずつ、感覚や感情が戻りつつある。
交互に来る好・不調の波の比率が少しずつ変わり、穏やかな時間が増えている。


帰り道、柳瀬川では牛蛙が鳴いていた。
動きやすい日と動きにくい日が交互に来るようだ。
調子が良いと気持ちも上向くし、そうでないと逆である。
仕方がない。焦らないことだ。
こうして行きつ戻りつ、振れながら徐々に回復してゆくのだ。


しばらく籠もって、独り言をまったく抑制しない生活を送っていた所為だろうか。
気付くと口が勝手に喋っている。
引越前はしきりに、疲れた、助けて、と繰り返していた。
越して来てからは、疲れた、ひどすぎる、大嫌い、駄目になった、と…
口から出て耳に入り驚く。
このとこ頭と心に重い霞がかかったようで、うまく働かないのだが…
私のなかに、蹲って泣きじゃくる人がいるような感覚がある。


私自身なのだろう。
しばらく強くあろうとするあまり、自身の柔かい部分を隔離して閉じ込めていたのかも知れない。
体の制御が利かなくなる原因もこれだろうか。


まずはこの泣く人と和解せねばと、イメージトレーニングを試みる。
だいぶ怒っているようで、伸ばした手を振り払われてしまう。
ゆっくりと少しずつ、仲直りをしなくては。


出来るだけ陽に当たり、家に風を通し、汗をかき水分を摂り、眠るように心掛ける。
心身の換気をして毒素を抜くのだ。


口が時折、絵を描きたい、と繰り返す。
プロフィール
HN:
玉川麻衣
年齢:
47
性別:
女性
誕生日:
1977/05/08
職業:
絵描き
趣味:
酒、読書
自己紹介:
ペン画を制作しています。 詳しくはカテゴリー「プロフィール」よりご覧下さい。

連絡先→tamagawa10@hotmail.com
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